米田良三の世界

 阪神大震災において高層ビルやデパートなどに代表される現代建築はことごとく被害を受けた。一方、お寺の三重塔や数寄屋建築などの伝統的な日本建築は被害を受けることはなかった。同じように奈良や京都にも過去に大きな地震はあったが、薬師寺の東塔や東寺の五重塔などの寺社建築や、しっかり建てられた京の町屋などは壊れることはなかった。地震国という風土に育った日本建築の技術の特色は、適格に指摘する識者はなかったが耐震性を獲得したことにあった。
 縄文時代の掘立柱建物が奈良時代以降建てられなくなったことや、青森県三内丸山遺跡の6本の巨大柱の柱痕に残る剪断破壊面が示すように、大地と一体化した建物の耐震性は限定的なものである。掘立柱をどれだけ太くしても巨大地震はその柱を剪断破壊したのだ。その後、縄文時代晩期から弥生時代にかけて巨大地震を克服する耐震技術が開発される。それは石造構築物からヒントを得たと考えられる玉石造り、礎石造りである。地面に置かれた玉石の上に柱を立てるという曲芸のような造りだが、その玉石は地震の加速度を除く働きをするのである。織田信長の安土城天守を訪れたバテレンのルイス・フロイスは不思議な光景として、日本の家は全て玉石造りであることを記録している。
 玉石造りの玉石を現代の工業製品ボールベアリングに置き換えて組み立てたのが弊社のアンティシスモである。10年近い日本建築の研究の成果の一つとしてこの特許(1)(2)は出来上ることになった。この技術の背景に以下に掲げる研究が平行してあったことをお知らせしたい。ご一読願えれば幸いである。

1999年2月吉日    米田良三

    『法隆寺は移築された』大宰府から斑鳩へ
    解体修理報告書をもとに移築を解き、倭国の優れた文化を示す。

    『建築から古代を解く』法隆寺・三十三間堂の謎
    京都三十三間堂は移築された建物である。元をたどって倭国の建築・文化を明かす。

    『列島合体から倭国を論ず』地震論から吉野ヶ里論へ
    地震論をもとに列島形成の歴史を追う。博多・吉野ヶ里の倭国の時代の歴史を解く。

    『逆賊磐井は国父倭薈だ』薬師寺・長谷寺・東大寺
    国父倭薈とは誰か。薬師寺・長谷寺・東大寺を素材として、その全体像に迫る。

 以上の米田4部作は新泉社から発行されています。ここでは、サンプルページとして「はじめに」、「目次」、「終わりに」を読むことができます。ルビ、図表は省かれています。

 米田氏が今までメジャーで著した本は『法隆寺は移築された』、『建築から古代を解く』、『列島合体から倭国を論ず』、『逆賊磐井は国父倭薈だ』の4冊です。第1書が画期的であったのは云うまでもありませんが、著者によれば、第2書が「倭尺」の存在を証明した点で自信作とのことです。ところが、増刷を望んでも出版社は応じる気配はありません。アカデミズムからの制止があるのでしょうか?
 「移築論」論争は、アカデミズムは定説を守ることが仕事、アマチュアはひっくり返すのが喜びであるため、真実を追求しているとはとても言えない状況が続いています。負ければ、全国の書店に並んでいる歴史書の90パーセント以上が全て無意味になりますので当然です。
 ネット上から外の土俵に出た論争は、いつになったら始まるのでしょうか?
渡辺しょうぞう
English



史跡調査中の米田良三氏 2008年11月 渡辺しょうぞう 撮影

AB&JC PRESS 前史

『地震と建築と』
 著者が雑誌「近代建築」に2001年12月から53回にわたって連載したシリーズを単行本化したもので、著者の知人、関係者に配布された。出版社へ持ち込むも受け入れられず、地震、建築関連の項を削除し、『続 法隆寺は移築された』 として作り直された。削除された章は以下に記す。
 その後3.11に遭遇したので、そのまま丸ごと発行していたのならば、著者の評価は圧倒的なものとなっていたかもしれない。

雑誌『近代建築』近代建築社

 地震と建築と  削除分
   4.加速度(1~2)
   8.倒壊しない家
   9.メゾンエルメス
  13.耐震工学の基本を問う
  16.地殻変動(1~5)



米田良三からの緊急メッセージ ( 2013. 9.11.)

想定外とは言えない!
建築・土木などの構造物を造る諸氏に問う

 建物に加わる自然の外力を代表するものに、地面・地盤から伝わる地震力と台風時に建物に加わる風の力がある。これらの外力に対処することで建物は地上に建ち続ける。地震力に対処するための方法として歴史上に二つの方法が採用された。そのひとつが現在の日本で採用されている建物を地盤に密着させて建て、地震力を外力として受け耐える方法である。建物の構造部材の強度を上げることで想定した地震力に耐える耐震工法である。

 現代日本の建築技術・耐震工法の代表作はスカイツリーとして異論はないだろう。地下50mの東京礰層と呼ばれる硬い地層に達する3箇所の節付き連続地中壁杭とこれらを結ぶ地下35mに達する連続地中壁杭で地盤に密着する。首都直下地震ほかを想定した構造安全性をうたう。強風時には入場が中止されるように、634mの塔は風の力で揺れる。節付き連続地中壁杭の「節付き」は風による引き抜き力に抵抗するための工夫とある(A図参照)。


A.スカイツリー 【 杭の概要図(地下からの見上げ)】



この地盤に密着の方法がいつから始まったかというと文明開化の明治時代である。お雇い外国人であるロンドン育ちの建築家ジョサイア・コンドルが(東大)教授となり、建築教育に携わる。1891年日本の陸域での最大の地震、濃尾地震が起こる。被災地に赴き、倒壊した玉石造りの民家を見、建築学会で伝統的日本建築を否定する公演を行う。その結果、地盤に密着した布基礎の上に木造軸組を載せる工法による住宅の耐震化が進む。
 一方、コンドルが否定した伝統的日本建築の工法が実はもうひとつの地震に対する対処法である。石の上に建物の柱を立てることで地震力を免震し、建物に地震力を伝えることはない。石に乗った建物は台風に飛ばされないように十分に重く、慣性質量として止まり、地盤の揺れは(礎)石の下の根石(ねいし)の動きにより処理される。建物の建つ地盤が盤築(ばんちく)を施した地盤など安定しておれば免震する。断層・地割れ・地すべりなどの地盤の変形が起これば、伝統的日本建築の建物も倒壊せざるを得ない。地震に対する対処法は安定した地盤維持が前提となる。ここの所をコンドルは見抜けなかったのだ。

 現代建築の歴史はこのように100年であるが、伝統的日本建築は神社・寺院・城・民家など明治維新までの全ての建物を含み、法隆寺が建てられた(事実は筑紫の観世音寺が移築された)710年以降の1200年の歴史がある。この工法の始まりは九州では西暦元年頃で1900年の歴史があると言ってよい。

672年以降、大和朝廷が日本国を支配するが、それ以前の近畿地方は日本国の連邦構成国で、扶桑国と称していた。元の「狗奴国」だが、当時は法隆寺(若草伽藍)・百済寺・飛鳥寺(法興寺)・橘寺・山田寺・紀寺・大官大寺・川原寺などが建ち、五重塔が林立する新興仏教国の様相を呈していた。大和朝廷の役人は日本国王室寺院であった観世音寺を調査したが、五重塔の心柱(しんばしら)まわりは塑壁が絡まり、心柱の詳細は不明のまま大和に戻り、移築計画を練ったと思われる。

 678年(『日本書紀』には684年とあるが、地方文書の地震被害の記録をもとに修正した)白鳳地震が起こる。土佐沖の南海トラフ地震で、土佐の膨大な土地が海に没している。扶桑国の寺院建築はことごとくが倒壊したと思われる。と言うのは当時の建物がその後の記録に残っていないからである。近年、山田寺の回廊が地中から発掘されたが、この地震で液状化現象が起こり、地中に沈んだと推理できる。天武天皇が拠点とした飛鳥寺の(五重)塔の記録も地震後は無くなるが、近年心柱の礎石が基壇下2.7mに発掘されている。

 法隆寺では若草伽藍が倒壊し、火災も発生している。若草伽藍を含めて敷地の整備が行われ、観世音寺の建物の配置を変えた西院伽藍の敷地を定め、金堂・五重塔の基壇が造られた。五重塔の基壇は心柱の礎石が敷地を掘って据えられ、心柱の代用となる中子(なかご)を据え、基壇全体に盤築が施され、土の層が礎石の上に2.7m積み上がる。中子を取り外すことにより深さ2.7mの心柱の掘立柱穴を持つ基壇が完成する。掘立柱穴に心柱を建て、隙間を土で埋め、心柱の根元の2.7mを地盤に密着させる扶桑国の造りである。五重塔が台風の風によって引き抜かれない穴の深さなのであろう。扶桑国の建築技術者は飛鳥寺の塔が地震で倒壊したことも、地震の2年前に完成したばかりの山田寺の五重塔が倒壊したことも知っていたが、地面・地盤に心柱を密着させる工法と地震の関係を掴めていなかったと思われる。法隆寺西院伽藍の建設は震災直後だが、同じ造りの掘立柱穴を用意したのだ。

 しかし、法隆寺五重塔の断面図(B図参照)から分かるように観世音寺から解体して運んできた五重塔の心柱は基壇の上75cmの心礎の上の皿部に建つ造りである。もちろん心礎は現在も観世音寺に残り、この解釈に一致する造りであることを確かめうる。法隆寺では掘立柱穴の周りに花崗岩を積み上げ、基壇上75㎝に台を作り、心柱を建てる。扶桑国の建築技術者はここに至って初めて日本国王室の石の上に建てる工法を理解したと思われる。


B.法隆寺五重塔 断面図



 法隆寺の五重塔が観世音寺の五重塔として建てられたのは607年のことであるが、王宮の建物にこの工法が採用されたのは400年後半の倭武の王宮からと思われる。200年代の卑弥呼の時代は掘立柱の建物であったことは政庁中門遺構重複状況模式図(『大宰府と多賀城』岩波書店)に説明できる。このように工法の切り替えに400年近くを要しており、観念を切り替える(慣性の法則の理解を得る)のは容易なことではない。

 ちなみに4000年前の青森県の三内丸山に掘立柱の建物が存在している(C図参照)。地下2mのところにせん断破壊した直径1mの栗の丸柱が発掘された。法隆寺の心柱の掘立柱穴と同じ工法で造られており、一回り大きい。穴の深さは2.45mで底に礎石はない。6個の穴が見つかり、建物は高層の倉庫を兼ねた宮殿であったと思われる。柱の根元の2.45mが地盤に密着することで台風に耐える造りとなっていたことがわかる。そして家財を含め巨大な慣性質量の建物に4000年前に巨大な地震が襲う。日本列島がフォッサマグナで合体したと思われる際の巨大地震である。地盤の変位により直径1mの栗の丸柱がせん断破壊し、建物は倒壊する。そして同時に起こった巨大津波ですべてが流されたのが三内丸山であり、丸柱の根元部分が残骸として発掘されたのだ(『列島合体から倭国を論ず』参照)。

 
C.三内丸山 発掘された大型掘立柱建物跡



 このように地震の力は想定を超えている。建物や構造物を扱う諸氏に問いたい。地震力に対する対処法は現代建築を含む掘立柱系を選ぶのか、伝統的日本建築系を選ぶのかと。原子炉・超高層ビル・スカイツリー・共同住宅他の巨大地震対策はどうしますか。

 絶賛発売中!伝統的日本建築系免震装置アンティシスモ(http://www.antisismo.com

米田良三