2.『源氏物語』の観世音寺
 十一世紀初めの作品とされ、二年前に千年紀と騒がれた『源氏物語』を見てみます。
 物語の主人公である光源氏の関わった女性の一人に夕顔がいます。源氏十七歳の年、宿直(とのい)での談義“雨夜の品定め”に左大臣家の頭(とう)の中将が、添い通せないはかない女性と打ち明けます。玉蔓(たまかずら)を連れて雲隠れした夕顔を、その後、源氏は偶然に見つけ、通い詰めることになります。しばらくして、某(なにがし)の院に夕顔と女房右近(うこん)を連れ出すまでになっています。ところがその夜、物の怪に取りつかれたように、夕顔は突然に亡くなり、右近は源氏に匿(かくま)われることになります。夕顔と右近が雲隠れしたなか、玉蔓の乳母(めのと)の夫が大宰少弐に任官になり、二人を置いて筑紫に向けて出発します。玉蔓四歳の年です。
 時が流れ、少弐の任官が解けて帰ることになりますが、重病の床につき、亡くなってしまいます。その後も一族が住み続けたのは肥前の国松浦(まつら)でした。姫君にしかるべくお仕えするようにと言う少弐の遺言もあり、乳母は長男の豊後の介や妹らと、二十歳ぐらいになった玉蔓を連れて、京に上ります。九条に昔懇意にした人を探し出し、宿と定め、神仏こそがしかるべくお導き下さると長谷寺に詣でます。観音信仰が盛んであることを映しています。椿市に宿を取った玉蔓の一行は、先約の一行と泊まり合わせることになりますが、それは玉蔓の消息を気にして、長谷寺に度々詣でている右近の一行でした。再会の喜びの時間が過ぎ、御堂の初夜(そや)の勤行(ごんぎょう)に臨んだ時の一行の中の三條と右近の様子が原文(岩波文庫本)では次のように語られます。
 国々より、ゐなか人おほく詣でたりけり。この国の守(かみ)の北の方も、詣でたりけり。いかめしういきほひたるを羨(うらや)みて、この三條がいふやう、
 三條「大悲者(だいひさ)には、異事(ことごと)申さじ。あが姫ぎみを、大貮の北の方ならずば、當国の受領(ずりょう)の北の方になしたてまつり給へ。三條らも、随分に栄えて、かへり申しつかうまつらむ」
と、額に手をあてて、念じ入りてをり。右近、「いと、ゆゝしうもいふかな」と聞きて、
 右近「いと、いたうこそ、ゐなかびにけれな。中将殿のむかしの御おぼえだに、いかゞおはしましし。まいて今は、天の下を御心にかけ給へる大臣にて、いかばかりいつかしき御中に、御かたしも、受領の妻にて、品定まりておはしまさむよ」と、いへば、
 三條「あなかま、たまえ。大臣・公卿も、暫(しば)し待て。大貮の御舘(みたち)の上の、清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、帝の行幸(みゆき)にやは劣れる。あな、むくつけ」とて、なほ更に、手をひきはなたず、をがみ入りてをり。
 内容は以下です。
 この国の守の北の方が詣でた勢いを羨(うらや)んで、三條が長谷観音に姫君が受領の妻になることをお祈りするのを聞いて、右近は
 「まあ、ひどく田舎じみてしまったものね。姫君のお父君の中将さまは、あの頃でもどんな御身分柄だったというのでしょう。まして今は、天下のことをお心のままになさっておいでになる大臣で、これほど立派な方の御一族なのに、この姫君が受領の妻におなりになるなどということがあるものですか」(円地文子訳)
と言うと、
 ここまでは三條と右近の話の流れが素直に理解できます。ところが次の三條の言葉は不可解です。
 「ああ、うるさい、何もおっしゃるな。大臣も何もしばらく待って下さい。大弐の御館(おやかた)の北の方が清水の御寺、観音寺にお詣(まい)りなさった時の勢いは、帝さまの行幸(ぎょうこう)にも負(ひ)けをとるどころではなかったのに。何も知らないで」(円地文子訳)
 円地文子は「観世音寺」では意味が通じないと判断したのか、「清水の御寺、観音寺」と京都の清水寺に差し替えています。それでも今で言えば、福岡県知事の奥さんの行動と天皇の行幸の様子を直接比較しており、不自然です。
 三條のこの言葉を与謝野晶子は次のように訳しています。
 「まあお待ちなさいよあなた。大臣様だって何だってだめですよ。大弐のお館(やかた)の奥様が清水(きよみず)の観世音寺へお参りになった時の御様子を御存知ですか、帝(みかど)様の行幸(みゆき)があれ以上のものとは思えません。あなたは思い切ったひどいことをお言いになりますね」
 「清水(きよみず)の観世音寺」と原文に忠実に訳していますが、やはり円地と同じ不自然さは残りますし、直前の右近が三條を非難した話とつながらず、意味不明と言わざるを得ません。

 観世音寺境内に建つ「清水記碑」は安永五年(1776年)筑前福岡藩士の加藤一純が建立したもので、以下のように書かれています。
 筑前国御笠郡観世音寺は清水山普門院といひける  源氏物語玉葛巻にも、大弐のみたちのうへ乃 清水の御寺の観世音寺にと紫式部もかけり  泚寺を清水の御寺といふなり  さいふことも此寺のうしろに清水のわきいづるところあればなるべし  この水いまにいたりてかわらず(以下略)
 碑文に書かれるように『源氏物語』には「観世音寺」と書かれていることは間違いありません。清水の御寺と言うのは、この寺の後ろに清水の湧き出るところがあるからと、筑紫の観世音寺のことだと念を押しています。おそらく円地文子は原文が理解しがたく、写本にあった書き込み(?)を採用したのではないだろうか。奈良の長谷寺での会話に九州の「観世音寺」が登場することは、動かし難い事実となる。そうするとますます以て、三條の言葉がどういう意味なのか不明と言わざるを得ません。
 もう一つ玉蔓の巻の筋書きの中に疑問があります。玉蔓の乳母の夫が太宰の少弐に任官して筑紫に下り、住まった場所が肥前の国の松浦(現唐津市辺)と語られます。現在の福岡県の副知事以上に当たる役職であり、大宰府辺の住まいでないとおかしいところです。しかし京に帰る段の、松浦からの早船の記述も筋書きの重要な部分を占めており、松浦でないと困るのである。
 『源氏物語』の研究で、このような疑問が発せられることがなかったのは不思議です。円地文子が「観世音寺」を消去した判断が何によるものなのかを知りたいところですが、『源氏物語』は単なるフィクションと言う認識から踏み出すことがなかったのかもしれません。

 ところで登場する〈筑紫〉が〈肥前国〉で、〈大宰大弐、大宰少弐〉が〈肥前国守、肥前国介〉であったならどうでしようか。平安時代ではなく、日本(倭)国の600年代、つまり『源氏物語』の舞台が京都ではなく、筑紫の京であったなら。
 二つ目の疑問であった玉蔓らの住まいが肥前国松浦であることは、肥前国介であれば当たり前で、疑問は解消します。問題は、筑紫の京から詣でた佐賀県佐賀市の隠国にあった長谷寺(『現代を解く・長谷寺考AB&JC PRESS 発行・参照)での、右近に対する三條の言葉ですが、原文は次のようになります。
「あなかま、たまえ。大臣・公卿も、暫し待て。肥前国守の御舘の上の、清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、帝の行幸にやは劣れる。あな、むくつけ」
 「ああ、うるさい、何もおっしゃるな。大臣も何もしばらく待って下さい。肥前国守の舘の奥様が、」と言いだしたところで、別のことを思い出したのだ。
 「清水の御寺の、観世音寺に詣でになられた(頭の中将の)勢いは、(桐壺)帝の行幸に劣りませんでしたよ。ああ、何も知らないくせに」と、三條は雲隠れした右近に対して、自分は、頭の中将が観世音寺に詣でられた様子を見、さらに桐壺帝の行幸をも見ているのだと自負する。夕顔らが雲隠れした後、筑紫の京を離れる直前にそれらを見ていることになる。
 夕顔の巻の後、若紫の巻、末摘花の巻、紅葉賀の巻に「朱雀院への行幸」及び「紅葉賀」と記される盛大な儀式が行われている。儀式に参加することが決まった面々は、演奏や演舞の練習にも余念がない様子が語られ、女子が儀式に出席できないことから宮中における試楽も行われる。儀式当日には桐壺帝が行幸され、晴れの舞台に光源氏と頭の中将が青海波を舞う。頭の中将の勢いは帝にも劣らなかったことは間違いない。
 三條は右近に対して17年前のことを糺(ただ)しているのだ。思い出した紅葉賀の興奮を背後に持つ言い草と言うことになる。「朱雀院への行幸」はこれまで朱雀上皇への行幸と解釈されてきたが、筑紫の京の「観世音寺への行幸」だったことになる。『源氏物語』を平安時代に再登場させるには、京都に観世音寺が無いため、朱雀院と言葉を置きかえざるをえなかったのだ。桐壺帝に観世音寺への行幸を頂いて、取り行われた盛大な儀式を紅葉賀と呼んだことが分かる。
 『源氏物語』には三條の言葉の中に「清水の御寺の、観世音寺」と観世音寺が1回現れるのみだが、本来の『源氏物語』には朱雀院と置き替えられた、以下の記述、関連記述があったことになります。
 神無月に、観世音寺の行幸あるべし。舞(まひ)人など、やむごとなき家の子ども、上達部(かんだちめ)・殿上人どもなども、その方(かた)につきづきしきは、皆、選ばせ給へれば、親王(みこ)たち・大臣よりはじめて、とりどりの才(ざえ)ども習ひ給ふ、いとまなし。〔若紫〕
 頭中「しか、まかで侍るまゝなり。観世音寺の行幸、今日なん、楽人・舞人定めらるべきよし、よべ、うけたまはりしを、「大臣にも伝へ申さむ」とてなん、まかで侍る。やがて、かへり参りぬべう侍り」〔末摘花〕
 行幸のことを、「興あり」と思ほして、君だちあつまりて、のたまひ、おのおの、舞ども習ひ給ふを、その頃のことにて、過ぎゆく。〔末摘花〕
 行幸近くなりて、試楽など、のゝしるころぞ、命婦はまゐれる。〔末摘花〕
 観世音寺の行幸は、神無月の十日あまりなり。世の常ならず、おもしろかるべき度のことなりければ、→試楽〔紅葉賀〕
 行幸には、親王たちなど、世の残る人なく、仕うまつり給へり。春宮もおはします。例の楽の舟ども、漕ぎめぐりて、唐土・高麗と尽くしたる舞ども、種おほかり。楽の声、鼓の音、世をひびかす。〔紅葉賀〕
 二月の廿日あまり、観世音寺に行幸あり。花盛りは、まだしき程なれど、三月は、故宮の御忌月なり。〔乙女〕
 今年は、男踏歌あり。内裏より観世音寺にまゐりて、つぎに、この院にまゐる。道のほど遠くて、夜あけ方になりにけり。〔初音〕
 観世音寺のきさいの宮の御方など、めぐりける程に、夜もやうやう明け行けば、〔初音〕
 その他、真木柱の巻、藤裏葉の巻、若菜の巻上にもありますが、省略します。
 また「清水の方」・「清水の観音」と観世音寺を愛称でも語っています。
 寺々の初夜も、皆、行ひはてて、いと、しめやかなり。清水の方ぞ、光多く見え、人のけはひも繁かりける。〔夕顔〕
 いと心あわたゞしければ、川の水にて手を洗ひて、清水の観音を念じたてまつりても、すべなく、思ひ惑ふ。〔夕顔〕
 「清水の観音」は607年に創建された観世音寺に安置された釈迦像の脇侍の千食王后像、後の百済観音を指していると思われます。桐壺帝の行幸の対象となる王室寺院としてあったのが観世音寺で、『源氏物語』の背景としての存在であることが分かります。

 では紅葉賀とは何なのかを考えてみましょう。過去の源氏研究により、源氏が何歳の時のことが書かれているかは知られています。
     18歳…………観世音寺・紅葉賀
     22歳…………桐壺帝の譲位
     32歳…………太政大臣、式部卿の死
     34歳…………観世音寺行幸
     53歳…………源氏死亡
 『日本書紀』の推古天皇条に、聖徳太子の死亡が次のように記されます。
 二十九(621)年春二月五日、夜半、聖徳太子は斑鳩に薨去された。このとき諸王・諸臣および天下の人民は、老いたものは愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からぬ程であった。若き者は慈父慈母を失ったように、泣き叫ぶ声はちまたに溢れた。農夫は耕すことも休み、稲つく女は杵音もさせなかった。皆がいった。「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらよいのだろう」と。(宇治谷孟訳『日本書紀』講談社学術文庫)
 法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘に見るように、上宮王の死は千食王后の死の翌日ですが、『日本書紀』の記す聖徳太子の死は一人です。また上宮王の死は622年ですが、聖徳太子の死は621年と異なります。このように聖徳太子は上宮王とは別人だとする一方、「慈父慈母を失ったように」とあり、上宮王の記録が聖徳太子死亡記事に転用されていることは疑えません。この記録から上宮王と千食王后の死のショックは尋常でなかったことが伝わります。
 『源氏物語』では文学的表現として、上宮王の死を桐壺帝の譲位と置き換えたと想定してみました。当時の人々には、その表現の裏にある上宮王の死は伝わるわけで、フィクションと現実の乖離を読み進めたと推測できます。そして三十四歳の時の観世音寺行幸は現実の上宮王の十三回忌に当たります。源氏をはじめとする出席者が故院(上宮王)の子供であることや、この行幸が内内のことと述べられることとも合致します。その他も以下に示す年次の出来事(赤字)と捉える事が出来ます。
    591年…………上宮王の治世始まる〈銘〉
    594年…………五重塔心柱の伐採年〈奈〉
    598年…………上宮王講経→五十万代施入〈資〉
    607年…………観世音寺創建(建前状態)+釈迦像・上宮王像・千食王后像〈資〉
    617年…………ハレー彗星出現「六月肺出」落書→五重塔仕上げ作業中〈報〉
    618年…………この頃観世音寺完成する〈報〉・〈融〉→紅葉賀(=落成式)
    622年…………上宮王・千食王后死亡〈銘〉→桐壺帝の譲位
    623年…………釈迦三尊像敬造請坐〈銘〉→上宮王・千食王后像を外す
    632年…………太政大臣・式部卿の死亡
    634年…………観世音寺行幸(十三回忌)
    650年…………三十三間堂の千体仏の完成〈紀〉
    653年…………源氏死亡
    661年…………観世音寺東院造→上宮王像・千食王后像安置〈二〉
 ハレー彗星出現時の617年の6月の段階で、観世音寺五重塔の天井板の仕上げ工事をやっていた。そして618年10月10日過ぎに観世音寺で行われた儀式、紅葉賀は観世音寺の落成式と言うことになる。金堂壁画などが完成した伽藍の前庭で青海波が舞われたのです。
 『源氏物語』は平安時代の作品とされてきましたが、筑紫の京を舞台とし、源氏の年齢に600を加えた年次の記録になっています。もちろんフィクションが加えられていますが、653年の源氏の死までの内容は、現実の時間の流れを踏まえていることが確かめられます。

 『源氏物語』薄雲の巻は源氏三十二歳の年、632年のお正月の様子の記述の後、突如太政大臣の死が語られ、次に式部卿の死が語られ、世の中の騒がしいことを(冷泉)帝が嘆かれる。
 『旧唐書』倭国日本伝には、次のように記されます。
 貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺史(しし)高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。
 631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。刺史高表仁が日本に遣わされたのは632年(『日本書紀』)です。『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。事件は博多駅辺にあった高津の宮に唐の使節を迎えての会談の場で起こったと考えられます。強大な国家唐が意図して起こしたと考えられる外交事件です。十四歳の冷泉帝を補佐する最高権力者である三十二歳の源氏は、三十六歳の唐の太宗の意図を外し、「表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」という形でこの事件を処理したものと思われます。この時の緊張感は『和泉式部日記』にも記されており、633年5月5日のことと分かります。
 帥(そち)の宮の侍従の乳母(めのと)が、和泉式部のところに出かけようとする帥の宮に小言をいう場面があり、その中で次のように言う。
 世の中は今日明日とも知らず変わりぬべかめるを、殿のおぼしきつることもあるを、世の中御覧じはつるまでは、かゝる御歩きなくてこそおはしまさめ
 (現代語訳)最近の政情は今日明日と関係なく変ってゆくに違いないのですから、殿が御計画を立てておかれたこともあるように、政情の変化の結果が見極められるまではこのような御歩きをなさらないでいなさい
 殿は源氏であり、政情は唐との緊迫した関係である。
 『源氏物語』と『和泉式部日記』と『旧唐書』は同じ事件を三様に記録していることが分かります。尚、フィクションである『源氏物語』の記録性については、641年3月10日過ぎの明石の女御の御産に対応して、写実的著述である『紫式部日記』を著わしたことで解るように、紫式部自身が特に重要と考えていたと思われます。
 『源氏物語』は、時間と空間の正確さの中に、源氏の存在を記録した作品と言えます。
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