三瀬 それは奇跡のパワースポット

 この界隈は全く開発されておらず、倭国長谷寺を偲ぶことができる夢のような聖地である。江戸時代には、善正寺からは鐘楼が、萬福寺からは経蔵が京都知恩院に移築された。丘の上には長谷寺本堂があった。丘の上に礎石が並んでいることが確認されれば、この仮説は限りなく定説に近づく。しかし、どういうわけか丘に登るルートが定かではない。山門は謎が多いが、倭尺で作られておれば、この地にあったと考えられる。倭国時代の元祖 紫式部、清少納言はこの鐘の音を聞いていた。同じ音を現代人は知恩院で聞くことができる。
○ 三瀬村 再訪

 2014年11月2日、三瀬村を訪れました(3度目)。
 1度目は長谷山観音寺跡の調査。その時「宿」は直感的に椿市であろうと閃きました。
 2度目は倭国時代の長谷寺の所在地の見当がついたところで、確認のため、米田良三氏と訪れました。
 3度目の今回は友人5人と「大人の修学旅行」。私がガイドです。
 あらかじめ善正寺、萬福寺に『長谷寺考』を郵送しておき、住職にお会いするつもりでしたが、両寺とも住職は不在で、お庫裏さんとお話しました。お二人とも各々、「その昔、鐘楼とか、経蔵があったという言い伝えは聞いていない」とのこと。私は「今後、古代史に興味のある人たちが訪れる機会が増えると思うので、『長谷寺考』を読んでおいて下さいと伝えました。善正寺の階段を上がると、そのスペースは知恩院の鐘楼のサイズが(現在の建物を取り除いた場合)ちょうど載っかるイメージでした。石垣は学校で習う「城の石垣の変遷」と対比した場合、戦国末期から江戸初期のものと解釈したくなりますが、かなり緻密な石組みが、あのような山中にある事からして、石造文化の発達した倭国の時代のものと確信しました。
 ご存知のように、倭国長谷寺では本堂と経蔵が近接して建っていたと米田氏が解明しておりますが、大和長谷寺本堂の外周の石畳のデザイン、その石材の材質ならびにサイズ、柱・扉・礎石の形と質感を知恩院の経蔵のそれと比べてみてください。さしずめ、同一の工務店が工事を担当したという印象です。
 昼食はかつて玉鬘も歩いたという(旧)椿市のメインストリートに面した築150年の家屋を改築した「じゅげむ」という麺処でいただきました。紀貫之が「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」と詠んだのもこの辺りであると思うと感無量のものがあります。
 この「宿」は街道に沿って紡錘形に発展した集落で、このお店以外にもしっかりした造りの古民家が並んでおり、大昔からの集落と考えられます。戦後しばらくの間、宿屋が数軒残っていたといいます。三瀬で宿泊する意昧がどこにあるのか現代の感覚では捕らえにくいのですが、倭国時代以来の門前町の伝統がかすかに残っていると考えます。集落の西の端に初瀬川が流れており、その辺りに船着場があって、椿の積み降ろしが行われていたのかもしれません。念入りに発掘すれば500年代の椿油の容器などが出てくるような気がします。


 三瀬村は世界中の人々があっと驚くエリアです

『源氏物語』玉鬘の巻の舞台

 『源氏物語』は通説より約350年昔、倭国の時代の京(大宰府)での出来事にフィクションを織り交ぜて書かれました。大和朝廷は邪馬台国に続く九州王朝を無かったものとして、ひそかに倭国の文明をパクって我がものとしています。平安時代の『源氏物語』はオリジナル『源氏物語』の改作であり、作者の紫式部も“成りすまし”です。

 早良街道が整備される以前の集落“宿”には、戦後しばらく数件の宿屋があり、このような山中での宿泊施設としての存在意義は分かりづらいのですが、倭国以来の伝統が残っていたのかもしれません。実はこのエリアは長谷寺の門前町である“椿市”なのです。この店の前を玉鬘のモデルとされる人物、紀貫之、清少納言(倭国時代の本物)が歩いていたのです。紀貫之は「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」をこのあたりで詠んだものと思われます。

 長谷寺はどこにあったのでしょうか?

 驚いたことに、この「宿」と目と鼻の距離です。
 「宿」から南下すると右手に杉神社が現れます。此処を起点に地図を見ると理解しやすいでしょう。



 中央の丘の上にあった長谷寺本堂は721年奈良県に移築されています。現在の大和長谷寺については、室町時代の観音様が江戸時代の本堂に収まっているとされますが、大嘘で、共に517年に完成したオリジナルです。法隆寺より古いのです。

 本堂跡の南に、石垣の上に建つミニ寺 善正寺がありますが、倭国時代は、そこに長谷寺の鐘楼がありました。日本一古く、大きい鐘が江戸時代のはじめまでありました。現在の“ゆく年くる年”で有名な京都 知恩院の梵鐘です。1678年に移築されたのです。元祖 清少納言もあの鐘の音を聞いていたと思うとワクワクしませんか?

 本堂の北西の萬福寺エリアのどこかに経蔵が建っていました。1621年移築されて現在、知恩院の鐘楼の近くにあります。

 杉神社、鏡神社も相当古く517年の長谷寺の創建より古いものです。  想定される回廊の出発点としての三門跡は現在、石垣で一段高くなった畑となっています。
 上記スポットの間を蛇行して走る川の名は昔から初瀬川です。

 以上を裏付けるものとしてハーヴァード大学の所有する「源氏物語画帖」玉鬘があります。大和長谷寺ではマッチしない点が多々ありますが、三瀬村のバードビューでは各々の位置関係はピッタリと一致します。



渡辺しょうぞう